西洋文化とマルメロ(マルメロの歴史)

マルメロはカスピ海と黒海の間に位置するコーカサス地方の生まれである。南グルジアからトルコとイランの北部にかかるこの地域には,今でも直径 3 cm ほどの小さな果実をつける小さな野生種が存在するという (Büttner, 2001)。

マルメロの栽培はチグリス・ユーフラテス河に挟まれたメソポタミア地方(現,イラク北部)あるいはコーカサス地方において BC 5000年から BC 3000年ごろに始まったと考えられており,マルメロの木は BC 2000年までに古代バビロニアで知られるようになっていたという。おそらく,旧約聖書の記述に出てくる「金のリンゴ」はマルメロを指したものであろうと考えられている(Brunn, 1963)。

 明確な「マルメロ」としての記述は,後にギリシア(BC 600年頃)やローマ(BC 200年頃)で見られるようになるが,ギリシアの社会は極めて早い時期からマルメロと密接な関係をもっていたことは疑い得ない。

Cydonia (現,Canea)
Cydonia (現,Canea)

 神話および歴史的考証から,マルメロはトロイア戦争以前(BC 13世紀頃)に Kydon (Cydonia;クレタ島北西の都市)からギリシアにもたらされたと考えられている。ある古典学者は,ホメロスがオデュッセイアの中で記述しているイタカの果樹園の「melons」は,マルメロ(ギリシア語で melon Kydonium)のことであると考えている。

 古代アテネの政治家ソロン(Solon, 紀元前639年頃 - 紀元前559年頃)は,花嫁が結婚の日に,多産の象徴として花婿からマルメロをプレゼントされる慣例について述べており,この習慣はアッティカ地方の一部で今も残っているらしい。

 

 古代ローマの博物学者プリニウス(紀元1世紀)はマルメロに詳しく,生食できる唯一の栽培品種である Mulvian 種を記載している。また,別の博物学者コルメラは,「sparrow apple」,「golden apple」,「must apple」と名付けた3つの品種について記述している。

 

 中世において,シャルルマーニュ(カール1世)は,812年,王宮の庭園にマルメロの木を植えることを命じたことによって,マルメロをフランスに導入することに一役買った。11世紀以降,マルメロを南ヨーロッパから北西部にもたらしたのは十字軍の戦士たちであったといわれる。なお,14世紀の英国詩人チョーサーは,フランス語の「coing」に由来する「coines」の名でマルメロについて記している。

 

 大航海時代のおとずれとともに,マルメロをユーラシア大陸から持ち出し,外の世界に広めたのは,フランス,イギリス,オランダ,ポルトガル,およびスペインの植民地開拓者たちであった。ポルトガル人とスペイン人は,メキシコ,チリ,その他のラテンアメリカ諸国にマルメロを導入した。ちなみに,日本への導入は中国経由であり,寛永11年(1634年)に中国より長崎に渡来したとの記録がある。

 

 一方,北米へのマルメロの導入は,ピルグリム・ファーザーズたちの入植後,マサチューセッツ湾植民地時代の初めに,移民者のリクエストによって英国から種子を取り寄せたことによる(1629年)。かくして,マルメロはニューイングランドにおいて植民地時代の少しの間だけ脚光を浴びた。1720年までに,マルメロはヴァージニアで広く栽培された。植民地内の多くの家庭菜園では,方々のマルメロの木から秋の収穫がもたらされた;しかしながら,この栄光はすぐさまリンゴに取って代わられてしまったのである。

 

アメリカ人はリンゴのような甘い果物に慣らされてしまい,マルメロをそれほど好ましいものとは思わなかったようだ。マルメロは合衆国において続いた西漸運動にのって西方へ旅をした。1850年代には,広大な土地を所有していたテキサス人がたくさんの果樹をその所有地に育てた。その中にはモモ,イチジク,ラズベリー,ザクロ,プラムとともに,マルメロもあった。

 

今日,マルメロは合衆国の特産果樹リストから外され,生産樹も生産される果実も非常に少ないという。合衆国においては存在するもほとんどが不人気となったマルメロであったが,いくつかのラテンアメリカ諸国,特にウルグアイでは成功を収めた。

 

米国で不人気とはいえ,多くの国々で,マルメロは果実の中でより優った存在であり,トルコ,南米,そして地中海地域で広く育成されているのである。